卑怯な僕とクリスマスの奇跡
パチリと目を覚ますと、とても静かな朝だった。イルカは、頬にあたる空気が冷たいと思えば、ぶるりと体が震える。
シンと静まり返った部屋が寒さを助長しているのか、布団のぬくもりが気持ちがいい。目覚まし時計が鳴ってないからと言い訳をして、布団の中に潜りもう一度目を閉じる。
どれくらいたったか、鳴らない目指し時計を不思議に思い、イルカはうっすらを瞼をあけた。もぞもぞと動き、片手を出していつもの場所を探ると、冷えた時計が手にあたる。
それを引き寄せ、眠気の残る瞳で時間をみると、イルカは布団を跳ねのけるように飛び起きた。慌てて洗面所に走るイルカの布団の上には、起きる予定の時間より、三十分も針が進んだ時計が転がっている。
洗面所から寝室に戻ったイルカは、カチコチと時を刻む時計ごと布団を畳み、部屋の端へ押しやる。次いで、寒い空気などお構いなしに寝間着を脱ぎ捨て、乱暴にタンスから取りだした忍装束を身につけた。
いつもきっちりとひとまとめにしている髪を適当に結び、額当てを握りしめる。焦りがにじむ表情のまま玄関を飛びだしたのは、体感的に十分たったかどうかだった。
つんざくような冷たい空気が皮膚を刺激するが、全力疾走をすれば、ドクドクと激しく脈打つ心臓で汗が吹きでる。
アカデミーの教員室で行う朝礼に間に合うかどうかの瀬戸際のイルカは、風を切るように走る。毎朝、賑やかに挨拶を交わす通りは、いつもより遅い時間からか人通りが少ない。
挨拶をする余裕はないが、通り過ぎながら声をかけ、アカデミーへと急ぐ。やけに自分の声が遠くから聞こえるが、耳の横をかけていく風のせいだと、小さな疑問は頭の片隅へと追いやった。
息せき切ってたどり着いた教員室の扉を勢いよく開けば、上司と同僚が驚いたりニヤけたりといろんな表情をしている。それに、おはようございます!と挨拶をして、自分の机に向かいひと息ついた。
少し乱雑な机の上に鞄を置き、壁の時計を見ると朝礼が始まる時間ピッタリだ。あがっていた呼吸を落ち着かせようと、椅子に腰かけ深呼吸をしたイルカは、肩を叩かれ顔をあげる。
隣の席の同僚が何かを言っているようだが、声が聞こえない。読唇術でもしているのかと怪訝な顔をしたイルカに、同僚も同じような表情をして返した。
そんな同僚の後ろから顔をだした後輩が大きな口を開けて何かを言っているが、それも聞こえない。
イルカはドキドキとうるさい心臓の音にかき消されているのかと思うと、身体中をかけ巡る血流の音さえも聞こえてきそうな静寂に冷や汗が流れる。
胸に手をあて、一度瞼を閉じた。イルカの頭に嫌な考えがよぎる。
いやに静かな朝だとは思っていたが、シンシンと冷えている空気のせいだと思っていた。
目覚まし時計の音が鳴らなかったと思っていたが、アラーム音は鳴っていたのかもしれない。
自分が立てているはずの音が聞こえてなかったのは、寝坊して、はやる気持ちが音を拾っていないのだと思っていた。
挨拶をしても返事がなかったのは、手をあげることで挨拶をしているだと思っていた。
それは、すべて聞こえていなかっただけなのだろうか。
そう思うと、耳が痛いほどに何も聞こえない今の状況に説明がつく。
イルカはゆっくりと瞼をあける。そこには、同僚と後輩だけでなく、上司も不思議そうな表情をしてイルカを覗き込んでいた。各々口を動かしているが、やはり何も聞こえない。
イルカは、その事実に唇をかみしめ、音が聞こえないことを、目の前にある少しよれた用紙の裏に書いて伝えた。
*
イルカの目の前には、三代目火影が難しい顔をして椅子に座っている。何やら言葉を発しているようだが、静寂の中にいるイルカには聞こえない。
読唇術は心得ているから、何を言っているかはおおよそ理解はできている。眉間にしわを寄せ、「困った」と何度も口にしているのを見ていると、つい笑ってしまった。
それを目ざとく見つけた三代目に「馬鹿もん」と怒られたような気がした。実際に唇は動かなかったが、表情にそう書いていた。
困り果てたような表情をしている三代目を見ながら、イルカは火影室に来るまでの状況を反芻する。
音が聞こえない、と書いたあと、耳の横で大声をだされたり、机をバンバンと叩かれたりとしたが、空気が震えるのを肌で感じるだけだった。
聞こえるのは、心臓が動く音と、血が流れるちいさな地響きのような音だけ。聞こえなくなって初めて、体の中ではこんなにも音がしているのだということがわかった。
そんなことに感心していると、上司がゆっくりとした口の動きで何があったのかを聞いてきた。それにひとつひとつ答えていると、神妙にうなずき、状況説明を記した式を飛ばした。それが行き着いた先が、今イルカが立っているこの部屋ということだ。
イルカは、記憶の中にある三代目の声を借りて、目の前の三代目と会話をする。と言っても、イルカは声をださずに、口だけを大きく動かしている。
自分の声が聞こえない状態で声をだすと、声量の調整ができないからだ。人は、耳に届く音を頼りに声を発する。そこで、音の大きさを調整するのだが、耳が聞こえなくなったイルカには、それが難しい。
どれくらいの大きさで声をだしたらいいのか、昨日までを思いだしながら出してみても、相手を不快にさせるだけになる。
実際、同僚と声をだして会話を試みたが、あまりの難しさに断念した。結果、声をださなくてもいい、読唇術か手話で会話をすることで落ち着いた。
イルカはため息をつき、視線を落とす。音が聞こえないとは、なんとも不思議な感覚だ。シンと静まり返った世界に、ポツリと一人で立っているような、置いていかれたような気がする。
それに、平衡感覚が鈍くなったような気もする。人は、音を聞いて立っているのか、壁や人との距離が分からない。まっすぐ立っているのか、まっすぐ歩いているのか、目から得る情報と理解する情報が一致せず、くらりとめまいがする時がある。
今朝はそんなことなかったのに、いざ無音ということを実感するとこのような症状がでる。病は気からとはよく言ったものだ。
イルカがうつむき考えていると、肩に手を置かれた。それにビクリと身体を揺らし、急いで視線をめぐらす。音が聞こえないと、どこに誰がたっているのかさえ分からない。
はたして、めぐらせた先には、思いもよらぬ人物が立っていた。イルカの肩に手を置き、顔を覗き込むその人は、里を代表する忍びの一人、はたけカカシ。顔の大半を布で覆い、額当てで左目を隠した姿は、少しばかり怪しく見えるが、唯一見えている右目に表情をよく乗せている。
今は、心配の気持ちを瞳に乗せている。なぜ、カカシがそんな顔をしているのか、なぜ、ここにいるのかとイルカの思考は少し混乱する。
それを感じとったのか、カカシが何かを言っているようだが、いかんせん、布で口を覆っているため何を言っているのかが分からない。急いで「分からない 」と言おうとすると、三代目がカカシの隣に立ち、彼の身体を横に押した。
「こら、布をしたままだとイルカが分からん」
「————」
「布をとりたくないなら、向こうに行っとれ」
「————」
「イルカ、今後のことだが——」
三代目とカカシが言葉を交わしたようだが、三代目の言葉しかイルカは理解できなかった。カカシが不満そうな顔をしているが、それに構わず、三代目が今後について話をする。
ゆっくりと唇を動かしてくれたおかげで、ひとつも漏らすことなく理解できた。が、なぜそうなったのかが理解できない。イルカは、慌てて静止を呼びかける。手話と唇の両方で三代目に「待ってください」と。
「ん?なにか聞き取れなかったか?」
(違います。なぜカカシさんがオレの世話をすることになったのですか?)
「暇をしてるのがこやつしかおらんかったからだ」
(え?暇?)
「この年終わりの時期は何かと忙しい。そんな中、部下を持ったカカシは、単独任務に出ることもなく、家族行事があるわけでもなく、暇をしてるから、イルカの数日間の世話役にすることにした。不満か?」
不満かと聞かれても、本人を目の前にして不満と言えるわけがない。イルカはカカシに視線をやると、今度は面倒だというような顔をした彼と目があった。
「暇だなんて心外です。オレだって何かと忙しいですよ、この時期は」
布を下ろす気はないのか、カカシが手話で会話をし始めた。
「この前、暇だとボヤいていたのはどこのどいつだ」
「————」
三代目をジトッとした視線で見やるカカシが、言葉を発したのかどうかが分からない。そして、なにより、カカシが世話役ということがさっぱり分からない。
「イルカ、混乱するのは分かるが、もう決めたことだ。身の回りの世話というわけではないが、何も聞こえないということは、何かと不便だからな、数日の間、一緒に住めばいい」
三代目の言葉にイルカは開いた口が塞がらない。一緒に住むとはどういう事なのだろうか。イルカは、知らぬ間に決まったことに、どういう行動をとるのが正解なのか皆目見当もつかない。
静寂の中に置いてけぼりにされたと思っていたが、すべての事柄に置いてけぼりされている事実に、イルカは言葉を発することができず、呆然とするばかり。そんなイルカに気づいたのか、「よろしくね」とカカシが手話をしてよこした。
それにイルカは何も答えることができなかった。
*
たぶんシュワシュワと音を出しているだろうヤカンを手に立つイルカは、ちゃぶ台に肘をついて座っているカカシに違和感を覚える。眠そうな右目は、何を見ているのか、ボゥっと窓の外を眺めている。
沸き立つ湯を急須に入れると茶葉が踊る。本当は湯の温度を下げなければいけないのだが、イルカはそこまで気がまわらない。
なんせ、心臓がドキドキとうるさく、耳の横で太鼓を叩かれているような感覚になっているから。
——カカシさんが、うちにいるなんて……!
心臓の音に重なるように震える指先のせいで、湯呑みがコロリと転がる。音がたったのか、カカシがこちらを向くが、それになんでもないと顔を左右に振る。
イルカは熱々の湯呑みを盆に乗せ、カカシの前に置く。そして、ゆっくりと唇を動かした。
(あの、カカシさん、オレは大丈夫なので、ご迷惑なら断ってもいいんですよ)
熱かったのか、湯呑みから手を離したカカシが、右目をイルカの瞳にあわせ、にこりと笑って手を動かした。
「迷惑ではないよ。ただ、どうしようねって思ってるだけ」
(何をですか?)
「数日間を朝から晩まで一緒に過ごすのか、それとも、外にいるときだけ一緒にいるのか」
(オレは、外にいるときだけでと思ってますが)
「うーん。それだと、何かあったときにオレのせいになっちゃわない?」
(…………)
とても嫌そうな声が頭の中でする。イルカの勝手な想像だが、面倒事を押しつけられたと言外に言われているようだ。
うつむくイルカに何を思ったのか、カカシがイルカの視線の先のちゃぶ台をトントンと叩く。それに顔をあげると、
「数日間のことだからここに住もうかなって思うけど、いい?客用布団とかあるかな?ないなら持ってくるよ」
と言われた。彼の中では、すでにここに住むことが決まっているのか、スっと立ちあがり、寝室へ続くふすまを開けられた。
「イルカ先生、意外と片付けベタなんだね」
朝のバタバタした状態のままの寝室は、脱ぎ捨てたパジャマや押しやっただけの布団がちらかって見える。勝手に部屋を開けて!と、怒りたくなったが、布をさげて笑うカカシの顔にイルカは目が釘付けになる。
——オレ、大丈夫かな。
初めてみた鼻から下の素顔に頬が熱くなったイルカは、それを隠すように顔に手をやり、こっそりため息をつく。秘かに想う相手と数日間過ごすはめになったことに、イルカは昨日の自分を呪いたくなった。
*
イルカの耳が音を拾わなくなったのは、昨日の夜、ある巻き物に書かれている術を試したからだ。
年の瀬の大掃除として、アカデミーの書庫を片付けていると、ボロボロの巻き物を見つけた。年季の入ったそれを恐る恐る開けば、字がところどころかすれてはいるが、手や指の組み方はしっかりと読みとれた。
何かを応用した術のようだが、危険はなさそうだと判断したイルカは、こっそりとそれを持ち帰り、興味本位で組んでみた。だが、煙がたつこともなければ、火花が散ることもなく、何も起こらないことに拍子抜けをし、風呂に入って床についたのだ。
そして気づけばこのような事態におちいっている。
その一連の流れを三代目に伝えたときは、教師たるもの何たることだ!と怒られ、久々にゲンコツをもらってしまった。
今も痛いそこに情けなさを感じるが、目の前で髪の毛をタオルでわしゃわしゃと拭いているカカシに、さらに頭が痛くなる。
カカシは客用布団があることを確認すると、寝間着などの宿泊セット一式を影分身に取りに行かせてくつろいでいる。長年の友人のような気安い雰囲気でイルカの部屋にあぐらをかいて座っている様は、なんと形容したらいいのか分からない。
——今日は分からないことだらけだ。
イルカは今日何度目かのため息をついて、風呂に入るために、洗っていた食器の最後のひとつを水切りかごに伏せて置いた。
イルカが風呂からあがると、カカシが閉じていた左目を開いて巻き物を見ている。イルカは、風呂上がりの素顔にも驚いたが、隠している左目をさらしていることに、さらに驚いた。
カカシの想像以上の素顔の綺麗さもさることながら、左目を縦に走る傷跡に精悍さを見てとり、また心臓が暴れだす。ドクドクと脈打つ心臓につられ、また頬が熱くなってきた。
イルカの恋愛対象は女だが、なぜかカカシに心惹かれた。あまり接点はなく、噂を聞くかぎりでは、冷たい人なのかと思っていた。それが、元生徒達に優しく接しているのを見ると、安着にも胸が高鳴り、気になってしかたがなくなった。
気になりだせば、無意識に目が追ってしまう。オレにも笑いかけてほしい、と思ってしまえば、好きのひと言が電流のように身体にかけめぐった。それから、絶対に知られないようにと行動を改めていたのに、まさかの同居。
イルカは髪の毛を拭きながら頭を抱える。だが、伝えるつもりはなく、隠し通すことを心に決め、カカシのそばへと一歩を踏みだした。
「解術をね、試みようと思うんだけど、よく分からないんだよね〜」
左目の写輪眼で巻き物を見ているが、カカシは眉間に皺を寄せてそう言った。
(高度な術なんですか?)
「いや、高度というわけではないけど、複雑?」
なんともハッキリとしない言い方に、イルカは怪訝な顔をする。
「そんな顔しないでよ。オレだって頑張ってるんだから」
呆れたような顔をイルカに向けたカカシは、巻き物を片付ける。素顔のカカシは手話ではなく、読唇術で会話をしてくれているが、普段通りに話すため、全部を聞きとれない。もう少しゆっくり話してほしいと思うが、「ゆっくり話してるつもりなんだけど?」と言われると、落ち込みそうだ。
そんなことは言われてないのに、想像のカカシの言葉にダメージを受けてしまった。それに相まって、少し不機嫌な様子のカカシに、イルカは内心焦ってしまう。
「もう、寝よっか」
そう言うと、カカシはちゃぶ台を部屋の端に寄せ、客用布団を敷き始めた。それを慌てて手伝うイルカに「おやすみ」と手話で伝え、イルカに背を向け、布団に潜り込んでしまった。その冷たい態度にツキンと胸が痛むが、イルカは声帯を震わせ「おやすみなさい」とポツリと呟いた。
それに返事があったかは分からないが、イルカは逃げるように寝室へと向かい、バタバタと布団を敷き潜り込む。滲みそうになる涙をこらえ、毛布にくるまるように丸くなる。
三代目は数日間と言っていた。この術は、音を奪う術を応用しているようだが、何をどう応用しているのかは三代目にもカカシにも分からずといったところだ。元となっている術の効果が数日で切れるため、イルカの状態も数日後には戻ると見込まれている。
だが、イルカは、カカシの態度から面倒をかけているのを感じとり、落ち込む一方だ。何も聞こえない心細さにくわえ、失態を好きな人にさらけだす虚しさで、グズっと鼻を鳴らし、枕に顔をうずめた。
イルカは久しぶりに両親の夢をみて目が覚めた。夢の内容を忘れることが多いのに、今日はハッキリと覚えている。そして、忘れていた思い出に懐かしさを覚え、壁にかけているカレンダーに視線を向けた。
そこには何の変哲もないカレンダーがかかっている。年終わりらしく、仕事納めや大掃除の日、冬休みの始まりなどが書き加えられている。そして、何も記されてない二十五日に夢の内容が重なる。
いつだったか、まだイルカが小さい頃、両親が旅人に聞いたという話を聞かせてくれた。それは、遠い西の国の伝統で、いい子にしてたら、たっぷりの髭をたくわえた老人がプレゼントをくれるという内容で、子ども心にいい子にしてなきゃ、と思った記憶がある。
その話を聞いた年は、いつ来たのか、起きたら枕元に小さな箱が置いてあり、中身におもちゃのクナイが入っていた。それを振り回して遊んだのは、今思いだしても嬉しかったのを覚えている。
そのあとすぐに一人になってしまったが、悪さをすることはあっても、いい子でいることを忘れなかった。なのに、あれ以来、プレゼントが枕元に置かれることはなかった。
今でもあれが何だったのかは分からない。だが、ふと思い出したことに笑いがこぼれる。大人になっても悪さをしてしまい怒られてしまった。
——今年も来てくれないかもしれないな……。ねぇ、父さん母さん……いい子にしてたら今年はプレゼントもらえるかな。
誰も何も答えてくれない。
今朝も耳が痛いほどの静寂の中、イルカはひっそりと涙を流した。
*
イルカの耳が聞こえなくなって一週間が過ぎた。いまだに回復の兆しがみえない。だが、仕事を休むわけにはいかず、教壇には立たないが、事務処理や掃除を率先して行っている。
イルカがアカデミーで仕事をする間は、カカシは第七班と任務についたり、修行を行ったりと、普段通りの日々を過ごしている。そんな二人の奇妙な同居生活は、不便を感じることなく続いていた。
その中でも一番驚いたのは、イルカの終業時間に合わせてアカデミーの門で待っていたことだ。初日より柔和な雰囲気になったカカシが、少し笑いながら手を振っている姿に、イルカはもちろん、隣を歩いていた同僚も固まった。
後日、連れ立って帰る姿を見送った同僚に「お前達……付き合ってるのか?」と、誰もいない教室に引っ張りこまれて問いただされた。それだけカカシの態度に驚いたようだが、イルカ本人も心底驚いた。
違うと否定はしたが、その日をさかいに毎日送り迎えをするようになったカカシのせいで、いろんな視線を感じる。男共のおもしろがる視線に加え、女性陣の妬みを含んだ視線がすごく痛い。
エリート忍者のカカシは、女性の中でとても人気のようで、垢抜けないイルカの世話役になったせいで女の敵になってしまったようだ。意地悪をされるとかはないが、女性の視線は痛い。とても痛い。
今日もその視線に辟易していると、同僚に肩を叩かれた。それに顔をあげると、飲みに行くか?とグラスを掲げる仕草をしている。少し飲みたい気分のイルカは、それに頷き、カカシに式を飛ばした。
耳が聞こえなくても、行きつけの飲み屋でふざけたように飲み食いすると、気分も晴れてくる。毎日神経を研ぎ澄まして生活しているイルカには、同僚との気兼ねない時間が楽しく、つい時間を忘れてしまう。
ほろ酔い気分で肩を組みながら歩いていると、グイッと腕を引っ張られた。それにバランスを崩したイルカは、そのまま誰かにぶつかってしまう。驚いて顔をあげると、目の前に布を下げたカカシが無表情でイルカを見下ろしている。
「遅くまで飲みすぎ」
ピリッとした雰囲気のカカシは、同僚に「世話をかけたね」と声をかけ、イルカを引っ張っていく。それを見送る同僚は、明日、イルカに付き合ってるのか?ともう一度尋ねることを心に決めた。
部屋について水を手渡されたイルカは、それを口に含むと、喉が乾いていたのか一気に飲みほした。それを待っていたカカシが、呆れたようにため息をついた。
「あのね、飲みに行くのはいいけど、耳が聞こえないってのは分かってる?」
それにこくりと頷く。
「オレが世話役としてそばについていることも分かってる?」
それにも頷く。
「だったら、オレに迷惑かけてるってのも分かってる?」
イルカはうつむいたままこくりと頷く。そのまま顔をあげることのできないイルカに、カカシはもう一度ため息をつく。そんなイルカの背を押して風呂場へと連れていったカカシは、
「布団を敷いておくから、サッと入っておいで」
と言い、背を向けイルカの寝室へと消えていった。その背を見つめるイルカは、さっきまでの高揚した気分がしぼみ、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
——そうだよな……カカシさんの時間を奪ってるんだった。それなのに、オレはなんてことしてんだよ。
滲みだした世界に涙が溜まっていくことを知る。だが、泣くことだけはしない。自業自得で陥った状況に泣くなんて、それこそ情けない。イルカは腹の底に力を入れて、涙を引っこめ、素早くシャワーを浴びて風呂場をあとにした。
すると、カカシが待ちかまえていたかのように仁王立ちしている。それにギクリと固まる。
「あのね、飲みに行ったことには怒ってないんだけど、今じゃないでしょ?」
(はい)
「同僚と一緒とは言ってたけど、なにかあったら心配するでしょ?」
——ん?心配……?
「なによ?」
イルカが不思議に思ったことを察したのか、カカシが眉間に皺を寄せる。
(いえ……あの、心配してくれたんですか?)
オドオドとイルカが手話で問いかけると、カカシが心外だと言うような顔をした。
「数日って言われてるのに、いまだに治る見込みがないんだよ?心配するでしょ」
その言葉にドキドキと心臓がうるさい。
「ほら……なにかあったらオレのせいじゃない」
顔を横に向けてそう言うカカシは、どこか照れているように見える。それにイルカの胸も高鳴っていく。
「あ、り、がとう、ございます」
久しぶりに声をだしたことで、たどたどしくなってしまったが、イルカは声で感謝を伝えたかった。つたなくも紡いだ言葉は、大きいのか小さいのか分からないが、カカシが微笑んだことで、イルカもにこりと笑った。
この日の夜は、静寂に押しつぶされることもなく、イルカはぐっすりと眠ることができた。
*
あの日以来、イルカとカカシは、互いのことを話すくらいに距離が近くなった。その中で、カカシが一番興味を引いたのは、二十五日の西の国の伝統について。カレンダーになんとなく印をつけていたことを尋ねられ、両親に聞いたことを教えるとおもしろがっていた。
「ねぇ、イルカ先生、今日は二十四日だけど来てくれるかな?」
(誰がですか?)
「だから、西の国の老人」
まさか、信じてるなんて思っていなかったから、カカシを凝視してしまう。
「イルカ先生は、ずっといい子でいたんでしょ?耳を治しに来てくれてもいいし、何かプレゼントを持ってきてくれてもおかしくないでしょ」
嬉しそうに笑うその顔にイルカは胸がいっぱいになる。両親とのこの思い出は、誰にも言ったことがない。
大切な思い出として心に閉まっていた。
毎年来てくれない老人に寂しい思いをしてきた。
それを、今年は誰かと一緒に待つことができる。
それが、想いを寄せている人とだなんて、なんて幸せなのだろうか。
鼻の奥がツンとして涙の気配がする。ずっと一人で過ごしてきたこの時期を、カカシと過ごせていることがプレゼントだとイルカは思う。
「あのさ、イルカ先生。オレね、こんなふうに誰かと一緒に過ごすことが久しぶりなのね。帰ると誰かが待ってくれてるし、帰りを待つことの楽しさというか、なんて言うのかな、一人じゃないんだなって思うことがね、なんだかね、楽しい」
そう言うカカシは、頬が少し赤い。それにつられるようにイルカも顔が熱くなっていく。カカシも同じようなことを思っているんだと思うと、イルカは嬉しくなる。
(これがプレゼントかもですね)
「ん?」
(オレも、こうやって誰かと過ごすのが楽しいです)
本当は「カカシさんと過ごすのが」と言いたいが、それは伝えるつもりはない。あと少しで日付が変わる。きっとこれがプレゼントだと思うと、イルカは不謹慎にも耳が聞こえなくなってよかったなと思ってしまった。
「ねぇ、イルカ先生、少し散歩しない?」
(今からですか?)
「そう、今から」
そう言ってカカシが自分の分とイルカの外套とマフラーを手にとる。押しつけられるように手渡されたイルカは、慌ててそれらを身につけて、カカシのあとに続く。
外にでるとあまりの寒さに身体が震えた。冷たい風に髪の毛が揺れると、髪を結っていないことに気づく。いつもと違う心もとなさを感じるが、前を歩くカカシは、布で顔を覆っているだけで左目は隠していない。それにも不思議な感覚がする。
どれくらい歩いたか、見晴らしのいい高台にやってきた。冷たい空気とシンとした世界が冬の寒さを伝えてくる。だが、透き通るような空に星が散りばめられているのが、とても美しいと思う。
イルカがそれに目を奪われていると、キンっと頭が痛くなってきた。目の奥がズキズキとうずき、耳がズグリと重くなる。だが、それは一瞬で消え去り、今度は耳鳴りがし始めた。ザーっと耳の中で大風が吹いているようだ。目の前の柵を掴み、ギュッと瞼を閉じると、うっすらと耳が何かをとらえだした。
「……んやは、ほん……さ……いね」
途切れ途切れに何かが聞こえる。
今、風が吹いたのか、頬を過ぎる冷たさと木々の葉が揺れる音がする。イルカは驚いて瞼を開けると、目の前にひと筋の光が走った。それは、キラキラと尾を引き、パッと光って消えた。
「あ、流れ星……」
横から聞こえたのは、誰の声だろう。
「あのさ、イルカ先生。聞こえてないのは分かってるんだ。でもね、どうしても聞いて欲しいことがあって」
カカシの声だと言うのは分かっている。だけど、彼はこんなに優しい声をしていただろうか。
「オレさ、いやいや世話役を引き受けたように見せてたけど、ホントはね、誰にも渡すつもりなかったんだよ」
これはいったいどんな状況なのだろうか。
「オレね、ずっとイルカ先生のこと見てたんだよ」
これは幻聴だろうか。
「だからね、いつも明るいイルカ先生が時々さみしそうな顔をしてるのも知ってたんだ」
盗み見たカカシは、星空を見上げている。
「そんな時は、そばに一緒にいたいなって思ってた。だけどさ、オレたちって仲良くするほどの接点ないじゃない。だから、不謹慎にもこれはチャンスだと思った」
独白のようなカカシの言葉が次々とイルカの胸にささっていく。
「ホントはね、イルカ先生の部屋にいることにドキドキしてたんだよ」
——オレもドキドキしてました。
「お風呂上がりのイルカ先生にもっとドキドキしてた」
——オレだって、風呂上がりのカカシさんの素顔やリラックスした雰囲気に、どうしたらいいか分からなかったです。
「ほら、あのお弁当を持って行った日あったでしょ?あれね、イルカ先生の手作りのお弁当がどうしても食べたくて、子どもっぽいことしちゃった」
——オレは、愛妻弁当とか気持ち悪いこと考えてました。
「同僚と飲みに行った日は、本当に腹が立ったんだよ。あんなにひっついて。今度からは、オレにひっつくこと」
——なんですかそれ。
「あのさ、イルカ先生。西の国の老人のプレゼント。本当は、音を送りたかったけど、解術できなくてごめんね」
——いえ、もう、十分もらってます。
「だから、この日に勇気を持つことにしたんだ」
カカシの思いにイルカは涙が浮かぶ。
「イルカ先生、好きだよ」
イルカは柵を掴んでいる手に力がこもる。
「勇気を持つとか言いながら、こんなの卑怯で情けないよね」
——聞こえているのに聞こえてないフリをするオレだって、卑怯で情けないです。
「聞こえてないのは分かってるよ。だけど、忘れてほしいな。こんな情けないオレのこと」
そう言ってイルカの方にやっと顔を向けたカカシが目を見張る。
「わ、すれ、ないです」
ボロボロと涙を流すイルカは、グイッと目をこする。
「忘れません。オレも、オレだって、カカシさんのこと、好き、だから」
かすれきった声でイルカが言葉をつむぐ。それは、冬風にさらわれてしまいそうなほどか細く、小さい音でもって発せられた。
耳が聞こえるようになったとか、伝えないといけないことはあるが、カカシの思いにイルカは涙が止まらない。
「どうしよう、すごいプレゼントもらったかも」
そう言うカカシにイルカは、嬉しくて笑ってしまう。泣きながら笑うイルカを腕に抱き込んだカカシが、ささやくように好きだと伝えてくれる。それにまた涙が浮かべば、脳裏に言葉が浮かんだ。
『イルカがこの先もずっと、大切な人とこの日を幸せに過ごせますように』
それは、遥か遠い両親との記憶。
あの日、枕元にプレゼントを置いたのは父さんと母さんだったのだろうか。
大丈夫だよ。
イルカは心の中で両親にそう言葉をかけ、カカシの背に腕をまわした。
静寂の中であれだけうるさいと思っていた心臓の音が今は心地がいいと思う。耳から伝わるカカシの少し早い鼓動に幸せをかみしめ、イルカはギュッとまわした腕に力を込める。
「カカシさん、オレ、今、とても幸せです。人生で一番幸せです」
耳が聞こえなくなることで起こった奇跡に、イルカは想いをのせた言葉を大切につむぐ。
好きだと言って抱き合う二人を喜ぶかのように、きらめく星がふたつ強く輝いた。
written by PoMo(@PoMokkir)
back